成田旅館ホテル組合

成田観光案内

江戸時代の歌舞伎役者・七代目市川団十郎が身をよせた

延命院旧跡A

延命院旧跡

水野忠邦による天保の改革にともない、江戸十里四方追放となった七代目団十郎を迎え入れたのが成田山で、延命院を住居として提供しました。延命院での生活は1年あまりでしたが、句会を催したり、村の子供達に芝居を教えたりして楽しく暮らしたそうです。

現存する最古の成田山本堂(3代前)

薬師堂B

薬師堂

明暦元年(1655年)に、成田山の本堂として建立されたもので、現存する成田山の建物としては最も古いものです。水戸黄門光圀や初代市川団十郎などが参詣したのはこの建物が本堂であった時代のことです。安政2年(1855年)薬師堂としてここに移築されました。


成田山のご本尊・不動明王像が一時奉安された

お不動様旧跡庭園C

お不動様旧跡庭園

公津ヶ原にて開山された成田山は、室町時代には戦乱の影響を受け伽藍も荒れ果てていました。その為、周辺の村々が相談し成田村に移す事となり、一時的に成田村の名主の屋敷にご本尊を奉安しました。その屋敷跡を整備したのが、この庭園です。

江戸時代の成田村の玄関口

石鳥居跡(加賀屋付近)D

石鳥居跡(加賀屋付近)

安政五年の「成田名所図絵」によると、現在は何もないこの地に石の大鳥居がありました。天保6年に江戸牛込の駿河屋平兵衛が成田山へ寄進されたもので、当時はここが成田村の入り口でした。昭和44年、九十九里浜の尾垂ヶ浜(光町)に「成田山不動尊御上陸記念碑」が完成したのを期に、光町の上陸聖地入口に移されました。


夏の一大イベント、祇園祭が行われる

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権現山(湯殿山権現)

300年の歴史ある成田祇園祭は、江戸時代に湯殿山権現の「八日祭り」と同日の成田山奥の院大日如来の祭礼とが一緒になって今日のような形になりました。

切ると変事が起こると言われている

不動の椎F

不動の椎

JR成田駅東口にある高さ約10メートル、樹齢700年といわれる椎の木。

鉄道が敷かれるまではこのあたり一帯は山林で、駅前広場が造成されても、この木だけは伐採されずに残りました。権現山の不動の杜にちなみ「不動の椎」と呼ばれるようになりました。


ノスタルジックなレンガ作り

成宗電車のトンネルG

成宗電車のトンネル

明治43年に成田山山門と成田駅を結ぶ路面電車として開通しました。その後、宗吾霊堂まで延伸されましたが、昭和19年に太平洋戦争によるレールの供出を余儀なくされ、廃線となり路線跡は「電車道」として残り、車両は1両だけ北海道にて函館ハイカラ号として利用されています。

朱色の鳥居が建ち並ぶ

お仙稲荷H

お仙稲荷

稲荷社の参道は朱塗りの鳥居がいくつも続き、京都・伏見稲荷大社の千本鳥居のような趣があります。鞘堂に覆われた石の社殿の周りには、稲荷の神の使いとされる狐の縁起物が多数置かれています。


剣術の小野派一刀流の開祖

小野次郎右衛門父子の墓I

小野次郎右衛門父子の墓

小野次郎右衛門忠明は文禄2年(1593年)二代将軍徳川秀忠の剣術指南役を務め、この地に600石を知行する旗本に出世しました。その後、子の忠常に家督を譲り、居住したのがこの寺台です。

剣豪小野次郎右衛門夫妻の木像がある

永興寺(ようこうじ)J

永興寺(ようこうじ)

室町時代の応永5年(1398年)に開山されたとする古刹、曹洞宗の寺です。山門左脇のお堂に、また本尊として地蔵菩薩が安置され、古来より厄除け安産子育て延命地蔵尊として人々から親しまれています。また成田という地名の歴史を物語るに最古の聖観音菩薩も安置されています。坐禅会、写経会も実施。ご朱印もOKです。


自然が豊富で散策コースが人気

坂田ヶ池K

坂田ヶ池

北側から南側の田んぼに水を逆流させたことから逆田ヶ池、転じて坂田ヶ池となったといわれ、池の中に湧水が出ているため、どんな旱魃でも枯渇することがないと言われています。

子育ての神として親しまれている

埴生神社(三宮神社)L

埴生神社(三宮神社)

成田総鎮守として、近隣の人々から「三の宮様」と呼ばれ、親しまれ崇拝されています。「子育ての神」として、初宮参りや七五三詣の参拝者が多く、成田の産土様として厚く崇敬されています。


成田山発祥の地

不動塚M

不動塚

天慶三年(940年)平将門の乱を鎮めるための祈祷が行われ、乱平定後にこの地に最初にご本尊不動明王が奉安されたと伝えられています。今では、杉木立に囲まれた小さな祠があります。

警護(稚児)行列も訪れる

不動尊旧跡N

不動尊旧跡

安政五年、新本堂(現釈迦堂)が建立された時、ご本尊の入仏供養の行列が出発したのがこの地です。

不動塚より成田へ遷座する前、一時奉安された所です。現在では毎年7月に行われる祇園祭の子供達の警護の行列はこの地を訪れる事になっています。


義民・佐倉宗吾の菩提寺

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宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)

宗吾霊堂の名で知られる鳴鐘山東勝寺は、桓武天皇の時代(781~806)に建立された真言宗豊山派の古刹。江戸時代初期の承応元年(1652)、凶作と重税に苦しむ農民のため、江戸に出て将軍様への直訴を決行した、公津村(現成田市)の名主木内惣五郎。多くの農民を救いましたが、法により翌承応2年(1653)には4人の子どもと共に死罪となりました。以来、木内惣五郎は“義民・佐倉宗吾”といわれ、全国的に知られることとなりました。その宗吾一家の菩提寺として東勝寺は静かなたたずまいをみせており、春の桜、初夏のアジサイ、秋の紅葉など四季折々の美しい風景が広がります。


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